伊東深水が描いた根津清太郎

a0248606_9332146.jpg 谷崎潤一郎夫人松子の前夫根津清太郎は丸尾長顕のプライベートな使用人として日劇ミュージックホールで、ついで日比谷にあった宝塚歌劇団の東京宿舎の舎監としてはたらいていたところ、脳溢血により一九五六年(昭和三十一年)五十七歳で不帰の客となった。
 作家で上方落語と上方芸能にかかわりの深かった三田純市に『道頓堀物語』という短篇集がある。一九七八年に光風社書店から刊行された本書の一篇「蕩児余聞」に、船場の老舗の若旦那としてその放蕩ぶりをとどろかせた根津清太郎の面影が語られている。
 オーディションの審査員を務めるなどミュージックホールと関わりの深かった画家で、朝丘雪路の父君としても知られる伊東深水(写真)が楽屋をスケッチしに来たことがあり、根津清太郎もそこに描かれていたと丸尾長顕が書きとめている。三田純市によればこのときの楽屋風景の作品は「戸外春雨」をはじめ数点ある。
 ある日、スケッチに倦んだ深水が珈琲でもと地下の食堂へ下りて行ったところ偶然に清太郎と出会った。画家がとまどってぎこちないあいさつをすると「ここのコキール、ちょっといけまっせ」と昔に変わらぬ上品な船場言葉で声をかけてきたという。根津清太郎は若いときから大阪の画家たちと交遊があり、その関係から東京から来阪した伊東深水を派手な遊びの宴席に招いたことがあった。
 深水のミュージックホールの楽屋を描いた絵について「蕩児余聞」には「小麦色の肌をした踊り子たち、青や赤や、白や黒の衣装の散らばったその風景の片隅に、その老人が、たぶんファンからの贈り物であろうか、花束を手にして立っている」としるされている。機会があれば見てみたいものだが、それまでは、ようやく生活の苦労から脱却しかけた男の穏やかでしみじみとした表情がそこにあると思っていよう。
 のちにその絵が出品された展覧会にやって来た花柳章太郎が見るなり「オ、こりゃ根津さんじゃないか」と叫んだ。この新派の名優も宴席に招かれひいきを受けていた。
 花柳は随行させていた若い役者に語った。
 「この人の奥さんが、いま谷崎先生の奥様なんだよ」
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by yumenonokoriga | 2013-07-10 09:32 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)