2013年 08月 05日
「笑わせ屋さん」
小沢昭一「わらわせ業始末」より。
いまは社会意識もだいぶん変わったが、かつては小沢昭一が言うように笑いを軽視する風潮があり、それはおのずと笑わせる芸人への差別感を生んだ。それでもコメディアンには舞台で笑いを取った実績が生きる自信となる。問題はそこから先にあり、小沢昭一は以下のような道程で喜劇役者のアイデンティティは揺らぐ、と指摘する。
〈そのうちに、笑わせ屋は、最後まで笑われ屋であることに堪えられなくなる。笑わせる、さげすまれる所業が、稼業として軌道に乗るまでは一心不乱だが、社会的に蔑視されることに気付いた時、立腹するのである。〉
〈笑わせ屋は、その所業の中でのさげすみには堪えられるが、送る世の中での蔑視には我慢がならないとなると、彼は、社会的な安住がほしくなる。そろそろ年も年で、そうドタバタひっくり返るのもしんどいし、次第にマジづくのである。マジづくとはマジメづく、つまりシリアスな表現への憧れが湧いてくる。笑いに意味をもたせ、笑いを通して人生を、だの、笑いの中に人の心の温かい心を、だの、ドタバタでなく人間の喜びと悲しみを裏に秘めた笑いを、だのということになる。〉
チャップリンがそうだった。日本では森繁久彌という不世出の役者がこのコースをたどったから、喜劇人の世界を森繁の影が覆った。小林信彦は『日本の喜劇人』で、森繁の上質のコメディアンから性格俳優への鮮やかな変化がその後の日本の喜劇人への意識にとんでもない異変を起こさせたと述べ、それを「森繁病」と呼ぶ。
翻って日劇ミュージックホールの舞台に立った喜劇人のうちどれほどが「森繁病」に罹ったのだろう。とりわけミュージックホールが舞台の最高域であった人にとっては「森繁病」に罹患するなど想像もできなかっただろう。けして嫌味で言うのではない。そんな病気と無縁であったことをここで讃えておきたいのだ。
寿ぐべき「笑わせ屋さん」として泉和助、トニー谷、空飛小助、田中淳一、和田兵助、マロ恵一、関ときをといった名前が浮かぶ。
(写真は浅草にある喜劇人の碑)