丸尾長顕・深沢七郎・金銭問題

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 永井荷風ははじめ広津柳浪に師事した。そのころ弟子が自分名義で作品を発表するのはむつかしく、一本立ちするまでは師匠の名義で、あるいは師弟合作というかたちで掲載されることが多かった。
 明治三十二年(一八九九年)五月荷風は『煙草雑誌』に「三重襷」という短篇小説を発表しているが名義は柳浪になっている。同年の「花籠」「かたわれ月」こそ荷風名義だが、「薄衣」「夕せみ」は柳浪荷風合作名義である。
 これには、弟子の名義では読者の注目が得られないという事情と金銭が絡んでいて、秋庭太郎『考証永井荷風』には「その原稿料などは柳浪に支払われて荷風に多く渡らなかったというが、崇拝していた柳浪と合作名義で(中略)自己の作品が掲載されたことは当時の荷風にとって本懐であったろう」と述べている。
 本懐かどうかは別にして、ここからは文学上の師弟と金銭のややこしい事情がうかがわれる。師が弟子を世の中に出す努力をすればするほど費用もかさみやすいから名誉の問題だけでは片付けられなくなる。学校とおなじで毎月の授業料を納めるかたちにしておけばあるいは合作というかたちをとらずに済んだかもしれないが師弟間に授業料などなじまないとすれば合作名義はそれに代わる文壇の知恵だったと考えられる。
 もちろん『楢山節考』の昭和三十年代には師弟合作名義といった慣行は廃れていて、名義問題などないけれど、それで師弟間の金銭問題が消滅したわけではない。ここのところを師としての丸尾はどう考えていたか。
〈原稿の指導は金で出来るものではない。その代り一作毎に腕を上げてくれることに大きな喜びがあった。ボク自身谷崎のおやじに批評を聞いたり御馳走になったり講義めいた話を聞いても、一文もお礼を持参した覚えはない。伊豆のお宅を訪問する度に和田金の牛肉を持参したりするぐらいで、これは手土産というものだ。
 そんなものだと心得ていた。〉
 谷崎と丸尾とのあいだはそれでよかったのだろう。けれどこの問題に一般論や法則はない。じじつ丸尾と深沢となると事情は違ってくる。丸尾が執筆した「楢山節考ざんげ」には日劇ミュージックホールの舞台に上げ、作家として世に送り出した深沢への怨み節が漂っている。
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by yumenonokoriga | 2013-10-05 06:23 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

Commented by saheizi-inokori at 2013-10-05 10:38
是非その一端でも教えてください。
Commented by yumenonokoriga at 2013-10-05 19:19
☆saheiji-inokoriさま
はいっ。次回から詳しく見てまいります。