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夢の残り香~日劇ミュージックホールの文学誌

深沢七郎のNMH再訪

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 昭和三十六年(一九六一年)深沢七郎「風流夢譚」に天皇、皇族が殺害されるシーンがあり、そのため掲載紙の中央公論社長宅が右翼に襲撃され、夫人とまちがえられてお手伝いさんが殺害されるという「風流夢譚事件」が起きた。
 衝撃を受けた深沢はそのため一時筆を折り、各地を放浪したのち昭和四十年に埼玉県南埼玉郡菖蒲町(現久喜市)に落ち着き「ラブミー農場」を開いた。また同四十六年には墨田区東向島に今川焼屋「夢屋」を、さらに埼玉の草加にも新しく「夢屋」を開いている。そのころに深沢が日劇ミュージックホールを再訪した話が嵐山光三郎『桃仙人 小説深沢七郎』に見えている。嵐山の誘いにようやく重い腰を上げた作家は切符を買ってホールに入ると舞台横のドアを開けて楽屋への細い会談を上がり、そこでスタッフとしてミュージックホールに舞い戻っていたヒロセ元美と出会った。嵐山は「十八年ぶり」のミュージックホールと書いているが具体の年の記載はない。ヒロセ元美は昭和四十七年の「すべて乳房からはじまる」や翌年の「ニッポンエロチカ・ワールド」で振付として名を見せているからおそらくこのころのことだっただろう。
 ヒロセが「おじさん、ひさしぶり」と寄ってくると深沢は「なにもかも昔のままじゃねえの。オレだけがこんな爺さんになっちまったよお」と応えている。
 このとき嵐山は何を思ってか深沢に「マルオさんて、どんな人だったんですか」と訊ねた。答えようとしない深沢に嵐山は「マルオさんて人が、オヤカタの小説の先生だったんですよねえ」と追い討ちをかけた。すると深沢の顔が急にけわしくなった。誰にも言いたくない嫌な記憶をたどっているような表情だった。
 「マルオなんてやつは、ろくでもないやね。先生づらして偉ぶるやつでね。もしかしたらマルオに会うじゃねえかと思って、それでここへ来たくなかった」と小声で早口に言った。ミュージックホールへ行くのに腰が重いという裏には丸尾長顕との確執が作用していた。
 深沢と古山高麗雄の対談が『深沢七郎の滅亡対談』に収められている。初出は昭和四十六年四月「季刊芸術・春季号」だから「マルオなんてやつは、ろくでもないやね」とほぼおなじころだが、ここで深沢は「丸尾長顕さん」「丸尾先生」と呼んでいる。儀礼上あるいは社会通念として深沢がほんとうに「先生」と口にしていたのなら煮え湯を飲む思いだったにちがいない。
by yumenonokoriga | 2013-10-20 09:04 | 日劇ミュージックホールの文学誌

いまはない日劇ミュージックホールをめぐるコラムです。

by yumenonokoriga
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