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久里洋二が見た丸尾長顕と深沢七郎

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 深沢七郎『楢山節考』の最終稿を師である丸尾長顕が閲読したのは両国の川開きの日の夕べだった。中央公論新人賞応募の締め切りは明後日に迫っていた。
 深沢は小さな川船を一艘持っていて、それを船宿に預けて貸し賃を稼いでおり、その船が閲読の場となったのである。深沢はまたお茶の行商仲買人もやっていて、丸尾によると「彼は素朴なイメージを持たれているが、なかなかどうして、世故にたけ、理財の才能を持っている隠れた一面があった」。
 漫画家、イラストレーターの久里洋二は鎌倉の丸尾邸で深沢七郎を紹介されている。
〈「久里君、面白い男を紹介するよ」と出て来たのがジャンパーを着た猫背の男だった。「僕ね、お茶の行商をしとるんよ。それにギターも弾けるから。それが、のちの作家・深沢七郎との初めての出会いだった。〉(久里洋二『ボクのつぶやき自伝@yojikuri』)
 『楢山節考』最終稿を丸尾がチェックした川船にはもうひとり久里洋二がいた。久里の記憶では江戸川の花火を見に行ったとなっていて丸尾の回想とは異同がある。また丸尾が「五回も書き直したのだから、殆んどもう手を入れるところはなかった。よし、これで勝負しようと決心した」とあるが久里の記憶は異なっている。
〈その時、丸尾先生が、原稿用紙を前にして深沢君と何やら話をしていた。「ここのところは、もっと緻密に表現したらどうなんだ」「いや、これで良いと思うだけど」「だめだね、老婆の心の中が書けてないよ」「そうかな」「分らないのか」原稿のトップには『楢山節考』と書いてあった。〉(久里前掲書)
 深沢七郎は第一回中央公論社新人賞を受賞した。久里洋二は川船での一夜を思い出し、有楽町の中華料理屋で丸尾、深沢とともに祝杯をあげた。
〈ところが、その後どうしたのだろう?深沢君は丸尾さんと会わなくなってしまった。なぜ?〉
 久里洋二の上のツイートでは、およそ三十年前の昭和五十五年、丸尾長顕が深沢七郎との関係破綻のいきさつを書いた「楢山節考ざんげ」にまったく触れていない。久里がこれを知らないとは思えない。あるいは、深沢側の証言がないのを考慮して「なぜ?」と書いたのかも知れない。

by yumenonokoriga | 2013-10-25 09:20 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)