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丸尾長顕、深沢七郎、久里洋二

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 深沢七郎、久里洋二、関根庸子。いずれも世に出るにあたり丸尾長顕との縁があった人たちである。
門下生といってよいだろう。このうち深沢七郎は丸尾から離れ、両者は義絶してしまった。
 その経緯について丸尾は「楢山節考ざんげ」を書いたが、深沢にこの種の証言があるかどうかについてはわからない。そうは言っても久しぶりに日劇ミュージックホールを訪れた深沢が同行の嵐山光三郎に「マルオなんてやつは、ろくでもないやね。先生づらして偉ぶるやつでね。もしかしたらマルオに会うじゃねえかと思って、それでここへ来たくなかった」と言ったところから、両者の確執の度合と深沢の気持は推し量られる。
久里洋二によると『楢山節考』が第一回中央公論新人賞を受賞して間もなくして「深沢君は丸尾さんと会わなくなってしま」い、以後「深沢君は二度と丸尾先生とは会わなかった」のである。
 さらには深沢の丸尾に対する感情は久里洋二にも及んだふしがある。
〈深沢君に、受賞祝いにF50号の鶏を描いた絵をプレゼントした。ところが、すぐに返却してきた。手紙に「あまりに立派で高価な絵をもらうわけにはいかないので返します」とあった。僕は、この絵が気に食わないのかと思ったが、そうではなくて、いつも留守する家に宝物は置きたくないとの事だった〉。
 こうして深沢と久里との関係も遮断したままとなった。
 丸尾はずいぶんと面倒見のよい人だった。深沢を日劇ミュージックホールのギタリストとして世話し、『楢山節考』の改稿を指導した。たやすくできることではない。将来の利潤をあてにした投資行動という面も一部にあったかもしれないが、それだけで人の世話はできないだろう。
 だが結果として丸尾は深沢七郎を狡猾でカネに汚い人間と見た。いっぽうで久里洋二を評して「仁義に厚い」と言っているところを見ると、丸尾は深沢の「仁義」に憤懣やる方なかったと思われる。
 「楢山節考ざんげ」における、指導し、マネージメントをした自分にしかるべき謝金も寄越さなかった深沢への論難は丸尾自身の人品骨柄をも語るに落ちたものとした。おそらく丸尾はそれを承知して、それでも書かなければ気持が納まらなかったのだろう。
(写真は左より久里洋二、深沢七郎、丸尾長顕、「楢山節考ざんげ」より)

by yumenonokoriga | 2013-11-05 09:13 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

Commented by saheizi-inokori at 2013-11-05 20:30
お互いの弱さを露呈してしまう人間関係とは切ないものですね。
Commented by yumenonokoriga at 2013-11-06 15:40
互いの弱さとともに、師弟関係は一般の先生と教え子とは違い愛憎の感情が濃いですから、こじれてしまうとやっかいなものがありますね。