「過酸化マンガン水の夢」

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谷崎潤一郎が昭和三十年十月に書いた「過酸化マンガン水の夢」はこの年八月に熱海から数日間上京した折りのことを書いた日記、雑感、私小説といった要素を併せ持つ作品で、日劇ミュージックホール、シモーヌ・シニョレ主演の映画「悪魔のやうな女」などが話題にされ、それらが夢にあらわれて怪奇や幻想となってゆく相が描かれている。小説や戯曲が成立する一歩手前にある作家の想念や妄念が語られていて、谷崎の文学が生まれる過程を考えるうえで興味深いけれど、ここではミュージックホールに焦点をあてて見ておくこととする。
 上京したのは「予、家人、珠子さん、フジの四人」で、かねてより松子夫人と珠子さん(夫人の妹)から女だけでは入りにくいミュージックホールへ連れて行ってくれるようリクエストがあり、谷崎は「女の観客は稀にパンパンが外人同伴で来てゐる程度で、夫人令嬢はめつたに見かけたことがないからまあ止したほうが宜しからん」と断っていたそうだが、今回はそうもゆかず婦人連れのミュージックホール出遊となった。もっとも遊びのたのしさはなく、一番後列のなるべく目につかない座席を指定しての観劇で、見渡したところ女性客はアメリカ人らしい男女のカップルとGIが連れたパンパンとおぼしき人たち以外はいなかった。
 このときの公演は「誘惑の愉しみ」で、公演リストによればRテンプルがトップで、ジプシーローズ、桜洋子、春川ますみが名を列ねている。
 ジプシーローズについて谷崎は、ここのプリマドンナらしいけれどもやや老けており、身体に脂肪が付きすぎているのと混血らしい容貌が自分の趣味に合わないとしたうえで、いちばん魅せられたのは春川ますみであり、その根拠を「昨今日本にもかやうに胸部と臀部の発達した肉体は珍しくないが、予は総じて猫のやうな感じのする顔、往年のシモーン・シモン(写真)式の顔の持主にあらざれば左程愛着を感ぜざるなり」と述べている。
 ジプシーローズについての感想は松子夫人には語っているのに、春川ますみに魅せられたことは「このこと家人には語らず心中ひとり左様に思ひしのみ」なのがほほえましい。
 ほどなくして谷崎の夢に春川ますみがあらわれる。前夜に食した牡丹鱧と彼女が結びついて「鱧の真つ白な肉から、浴槽の中で體ぢゆうの彼方此方を洗つてゐた」春川ますみの連想が浮かぶ。
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by yumenonokoriga | 2014-02-05 10:38 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)