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トニー谷

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 昭和二十五年三月、仙台の児童養護施設を「脱走」して上京した井上ひさしは日劇小劇場の舞台を観て夢のようなひとときを過ごし、これを機にメリー松原は美の女神となった。コメディアンではトニー戸村が印象に残ったという。のちのトニー谷で、改名以前から目立った存在だったことがうかがわれる。
 ながらく日劇のプロデューサーと演出家を務めた山本紫朗はコメディアンの出世の階梯をつぎのように語っている。
〈浅草でやって、浅草から新宿へ来て、新宿から例えば日劇ミュージックホールへ来て、ミュージックホールから日劇へおりるという、そういうパターンがあったんだけど、今は小さい舞台もないし、日劇という目指す桧舞台もなくなっちゃった。今はもう、いきなりテレビですからね、テレビでちょっと目立ったことやりゃあ、すぐ食いついてくる。日劇がなくなったということは、あらゆる意味から考えて、日本のショウビジネスというものを駄目にしていくことになるでしょうね。〉(和田誠『ビギン・ザ・ビギン』)
 トニー谷はミュージックホールが生んだ有名コメディアンだが、上の出世の階梯からははみ出している。多くの喜劇人のスタートラインだった浅草がこの人にはない。そこの舞台に立ったことはあっても浅草と結ぶイメージはない。浅草の生んだ関敬六や渥美清と比較すれば一目瞭然だろう。異例、異色のコメディアンである。そうして世間の反感を買った点においても特筆される。
 矢野誠一の表現を借りると「キンキラキンの、チンドン屋だって尻ごみしそうな派手なタキシードに身をかため、どこで見つけてきたのか太い黒縁の逆三角形の珍奇な眼鏡、それに口髭と、気障の国から気障をひろめに来たようないでたちは、客を唖然とさせ」「あまりにもアクが強いため、心ある識者から顰蹙を買ったものだが、安っぽくアメリカナイズされたその藝は、占領下ならではの軽薄さが横溢していて、ある時代を確実に象徴していた」のだった。
 昭和六十二年七月十六日に亡くなったとき、ある新聞に「ソロバン片手に『さいざんす』」と見出しが付いた。「レディス・アンド・ジェントルマン・アンド・おとっつあん、おっかさん、おこんばんわ」と登場していかがわしさとキザをふりまいた。観客はその舞台に笑いながら占領期日本が生んだあだ花に反感を抱いた。

by yumenonokoriga | 2014-02-10 09:11 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)