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夢の残り香~日劇ミュージックホールの文学誌

小林一三の迷言

小林一三の迷言_a0248606_910103.jpg 日劇小劇場のストリップ興行は好成績を挙げていたがこの事態を苦々しく見ていたのが日劇のオーナー小林一三である。
 いわく「俺は丸の内で女郎屋をやる気持はない」。
 小林一三は阪急電鉄の経営に参画し、大阪梅田にデパートをつくり、駅とデパートを繋ぐ日本初のターミナル・デパートとした。また、沿線の宝塚を一大行楽地として開発し、宝塚歌劇団はその一環として大正三年につくられた。宝塚新温泉の余興として出発した歌劇団だったがやがて東京へ進出し、昭和九年には東京宝塚劇場を東の本拠地とした。昭和十二年には東宝株式会社を設立し、日本劇場、帝国劇場を傘下におさめた。昭和十五年には第二次近衛内閣の商工大臣に就いている。この大オーナーが日劇小劇場からはだかをなくせと厳命したのだからやっかいだ。 
 小林一三の意向を体して日小問題に対応したのが長男富佐雄だった。この劇場はけっこう儲かっているから閉鎖するにはしのびない、そこで彼はショーと劇場のリニューアルに着手する。
 富佐雄が相談相手としたのが父一三の弟子で子分で旧友でもある丸尾長顕だった。富佐雄は丸尾に、高級で、ストリップではないショーをはじめてみないかと持ちかけている。丸尾は作家として文壇で認められたいと考えていたが、小林富佐雄の求めに応じてショーの世界で世に出ようと決意する。
 この世界の先輩といえば宝塚の白井鐵造、日劇の秦豊吉がいるだけ、つまり自分はナンバー・スリーであるという自負を抱いて新しい劇場の構想に乗り出した。まずは運営委員を組織する。丸尾としては、作品を書いて演出するだけではなく、劇場経営にも参画する狙いがあったという。かくて丸尾、宇津秀男、東郷静男、岡田恵吉、長谷川十四郎の五人が運営委員となった。
 また新しい劇場の名称も当時東宝の撮影所長だった雨宮敬之の提案で日劇ミュージックホールと決まった。
 こうして昭和二十七年一月末を以て日劇小劇場の閉場が決定され、日小は最後のストリップ公演を行うこととなった。
 それにしても「丸の内の女郎屋」とはよく言いもしたものだ。
(写真は日劇小劇場の舞台。セリはまだないようだ。岡田恵吉『女のシリ・シンフォニー』より)
by yumenonokoriga | 2014-06-05 08:05 | 日劇ミュージックホールの文学誌

いまはない日劇ミュージックホールをめぐるコラムです。

by yumenonokoriga
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