人気ブログランキング |

2013年 07月 20日 ( 1 )

「蕩児余聞」

a0248606_9592049.jpg 根津清太郎の日劇ミュージックホールでのはたらきぶりについて丸尾長顕は「彼は実にこまめにミュージックホールのヌードたちの世話をしてくれた」と書いている。
 このあと清太郎は東宝のはからいで宝塚歌劇団の東京宿舎に職場を移した。そこでの清太郎については三田純市『道頓堀物語』の一篇「蕩児余聞」に詳しい。
 宝塚歌劇団は関西に発していたから船場の富豪のぼんちにも多少の関係はあった。清太郎が放蕩者の名をほしいままにしていた全盛のころ、宝塚のトップスターだった天津乙女とマイカーでいっしょにドライブしたこともあったという。
 ある日、舎監として生徒の宿舎に住み込んだ清太郎と、そのころは歌劇団の理事職にあった天津乙女との出会いがあった。
 「あんたらは知らんでしょうけど、あの小父さんは偉い人なんやさかい」と天津乙女は下級生たちに言葉遣いに気をつけて、大事に扱うてあげんといかんよと言い聞かせたが、生徒たちは一向に頓着なく「おっちゃん、衣装のトランクに縄掛けてよ」などと平気で清太郎を使い、「おっちゃん」のほうもホイホイと気さくに腰を上げて応じていた。
 根津清太郎が丸尾長顕に雇われてミュージックホールではたらいたのは昭和二十九年から三十年にかけてのわずかの時期だった。ステージではトップに伊吹まり(昭和三十年六、七月公演「ブラジャーに手を出すな」で伊吹まり代に改名)、ついでメリー松原、R.テンプル、ジプシーローズ、奈良あけみ、桜洋子といった名前が見えている。なかに谷崎潤一郎が大のひいきとしていた春川ますみもいる。余計なことながらミュージックホールの楽屋や廊下で谷崎と清太郎は鉢合わせしなかったのだろうか。
 ともあれ根津清太郎について丸尾長顕とともに三田純市が小説に遺してくれていたおかげで、その軌跡を知ることができたのはありがたかった。
 一九九四年に亡くなった三田純市を追悼した「落魄願望のひと」で演劇評論家の矢野誠一は「蕩児余聞」という作品について、三田の文業のなかでも際立ったものと評価し、巨大な財とともに妻の松子をも失ったこの一代の蕩児の孤独に筆が及んだのは「それはそっくり書き手三田純市の憧憬であり、羨望でもあったように読める」と述べている。

by yumenonokoriga | 2013-07-20 06:18 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)