2015年 06月 10日 ( 1 )

矢野誠一「パン猪狩」をめぐって

 矢野誠一『落語のこと少し』(岩浪書店二00九年)に「パン猪狩」と題した一文がある。二00五年十二月朝日新聞夕刊に「忘れ難き藝人たち」と題して掲載したいくつかのコラムの一篇で、著者は同年十一月十三日東京コミックショウのショパン猪狩が亡くなったのを機に久しぶりに実兄のパン猪狩を思い出して書いたと述べている。
 パン猪狩(一九一六年~一九八六年)は日劇ミュージックホールの舞台にも立ったボードビリアンで本欄でも何回か採りあげた。帽子の珍芸でおなじみだった早野凡平や「ママとあそぼう!ピンポンパン」でお茶の間の人気者だった坂本新平の師匠筋にあたっていて、帽子のネタも東京コミックショウの「レッドスネークカモン!」もこの人の作だった。それを弟子や弟が開花させたわけだが、そこには「当人が演ったのでは、陰気で受けなかった」という裏事情があった。
 泉和助がこのタイプで小林信彦『日本の喜劇人』には「あなたは、カメラに写ると、本質的に暗いので敬遠されるのだ、とは、さすがに言いかねた」「そのアイデアを他人がやると面白いのだが……」とあり、パン猪狩と泉和助が相似形に見えてくる。

 その「陰気で受けなかった」具体の姿を矢野誠一はこんなふうに追想している。
 「世間に六0年安保の嵐が吹き荒れていたころ、伊吹まり、メリー松原、奈良あけみなんて看板に惹かれてもぐりこんだ日劇ミュージックホールの幕間狂言で見たパン猪狩って、暗かった。自分の腹から取り出した臓物を、パタパタあおいで焼き鳥にして自分で食べるというパントマイム。ブラックユーモアと言えば聞こえもいいが、華やかなレビューの舞台にそぐわない」。
 パン猪狩の暗さを想像するよすがとなる貴重な回想なのだけれど、前段の「世間に六0年安保の嵐が吹き荒れていたころ、伊吹まり、メリー松原、奈良あけみなんて看板に惹かれてもぐりこんだ日劇ミュージックホール」は著者の記憶違いで、六十年安保の年には彼女たちは後進に道を譲っていて、そのころは小浜奈々子、多喜万利、丘るり子、瞳はるよ、島淳子たちがスターの座にあった。
 資料として回想文を読む際には慎重さを要するのを心しておかなければならない。
 余談になるが以下は『深沢七郎の人間滅亡対談』(ちくま文庫)にある深沢と古山高麗雄の対談「ギター・軽演劇・文学・自殺」にあるやりとり。

 古山 二十八年ですか。ミュージックホールに入られたのは。
 深沢 いいえ、三十年。日劇ミュージックホールになったのは三十年でしてね。その第一回がいまも覚えてますけど、「一日だけの恋人」というので出たんです。いま考えればストリッパーのいちばんいいときでしたね。そのころが。

 日劇ミュージックホールが開場したのは昭和二十七年三月、深沢が桃原青二の名ではじめてミュージックホールに出演した「一日だけの恋人」は昭和二十八年一月一日から二月十五日までの公演だから、ここでの深沢の記憶は大混乱といってよいほどだ。
 おなじ対談で深沢は日劇小劇場(日小)が装い新たにミュージックホールとなった前段に日劇バーレスクルームと呼ばれた一時期があったと語っている。気になる発言だが、真偽についてはまだ見極めがつかない。
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by yumenonokoriga | 2015-06-10 11:36 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)