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カテゴリ:日劇ミュージックホールの文学誌( 250 )

森泉笙子「もうヒトツのソラ展」のご案内

“ANOTHER SKY” SOLO EXHIBITION BY SHOKO MORIIZUMI
2016年2月18日(木)~23日(火)11:00-19:00(最終日は17:00まで)
プロモ・アルテ プロジェクト・ギャラリー
東京都渋谷区神宮前5-51-3 Galeria Bldg.2F
(地下鉄表参道駅B4出口徒歩五分)
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略歴(「もうヒトツのソラ展」図録より)
1933年 東京に生まれる
1957年~58年 関根庸子の名で日劇ミュージックホールにショーダンサーとして出演
1959年 新宿二丁目にバー・カヌーを開店
1965年 バー・カヌー閉店

作家として
1957年 関根庸子の名で処女作「女の復讐」を「週刊新潮」に発表
1959年 『私は宿命に唾をかけたい』(光文社)
1965年 埴谷雄高氏よりペンネーム森泉笙子をいただく。
森泉笙子名による主要著作
『危険な共存』(河出書房新社1970年)
『天国の一歩手前』(三一書房1984年)
『新宿の夜はキャラ色』(三一書房1986年)
『香港の朝起会』(深夜叢書社1988年)
『ブーゲンビレアの花冠』(三一書房1990年)
『食用花』(深夜叢書2000年)
『青鈍色の川』(深夜叢書2009年)

画家として
2010年 「森泉笙子寄贈絵画―埴谷雄高とかかわりのあった人たち」展(埴谷島尾記念文学資料館・福島小高)」
2011年 「もうひとつのそら」展(ギャラリーKazima・銀座)
2012年 「モウヒトツのソラ」展(サロンドゥラー・銀座)他
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by yumenonokoriga | 2016-01-25 08:32 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

脚線美閑話(一)~荷風と犀星

 日劇ミュージックホールの総帥丸尾長顕は「足はセックスを支える柱であり、セックスへの『ローマへの道』」と述べた。そのローマのへ道をすこしばかり歩いてみたい。

  永井荷風が父のすすめで渡米したのは明治三十六年(一九0三年)二十四歳のときだった。九月二十二日に横浜港を出帆し、カナダのヴィクトリア港を経由して十月七日にシアトル港に到着した。爾来耳目を引くものは多く、そのひとつに脚線美があった。
 明治三十八年四月一日付けの友人西村恵次郎に宛てた手紙に、荷風は風俗と境遇が違うとこれまで見慣れた日本の春画は可笑しいばかりで少しも実感を起こさせないとしたうえで「実感の点から云ふと足踊りをやッて居る安芝居の広告画の方が遥に有力なのです。今日春情実感を起させる一番有力なのは、女のペチコートの間から、ほの見える足の形一ツです。細い舞り靴をはいた女の足・・・・・・此れが一番微妙な妄想を起させるです。(中略)女役者の体格試験の中に足の形の検査が容貌のそれより六ケ敷しいと云ふのも一理ありですよ」と述べている。
  明治十年代後半のいわゆる鹿鳴館時代の欧化政策のもと、上流社会の女性のあいだに洋装が流行した。まもなく東京女子師範学校はじめ各地の学校で女子生徒の制服として洋服が採用されるようになった。これがわが国女性の洋装ことはじめだが、スカートの丈は長く、まだ和装の女性が多くを占めていた。
  こうしたなかでアメリカに旅立った荷風は、脚線をあらわにしたレビューの踊子の姿に大きな刺激を受けた。荷風は早くに脚線美を発見した日本人だった。
 やがて女性のファッションの世界ではココ・シャネル(1883-1971)の活動が衝撃的な変化をもたらす。窮屈な服装に耐える服装からスポーティでシンプルなデザインの服装への変化である。女性の社会的進出もそれを後押しした。こうしてスカートの丈は短くなり、足が見えるようになる。そのときの驚きと興奮をのちに室生犀星が『随筆女ひと』に記している。
  「丈の短いスカートがはやり、永い間着ものでかくされていたきめの細かい日本の女の脛は、うすいこまかい緊まりを見せた脂肪のつやを、くつ下のしたからちょっとしたあかりを見せ、電車の座席などで無心にならんで見える膝から踵までの、また、ふくらはぎの伸び方の放心さにいたっては、これまで、そんなところを見たことのない古男共にとっては、まさに驚嘆の唾を飲みこむほどのものであった。それは毎日眺めるものであり、そして生涯眺められる光景のものであって、決して飽きることのないいのちの糧のようなものであった」。
  それまでの「女の手というものには、むかしはたいへんな魅惑があった」「手は女の二番目の顔のようなものであって、仮りに女の人がゆるして男に手をにぎらせるということがあれば、女の人に相当なかくごがいるものである。いまでいうキスをゆるすという程度にほぼ近いものに、手重く見てよかった」時代は過去のものとなり、「薄情なわれわれはもはや手というものを見なくなって了った」のだった。
  男の視線が手から足へ移動していった事情がうかがわれる証言である。
  犀星が『随筆女ひと』を書きはじめたのは一九五四年(昭和二十九年)六十五歳のときだから、上の文に「丈の短いスカートがはやり」とあるのはミニスカートではなくて膝が隠れていた頃だったが、それでも大変な刺激だった。a0248606_120394.jpg

by yumenonokoriga | 2016-01-15 09:10 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

観察

 小学校の理科の授業で植物の成長を観察して天気や気温とともにノートに書いた。中学生になると怖い上級生がいて、難を避けるために注視をしなければならなかった。眼前の観察はやがて新聞やテレビをとおして社会についてのそれにつながり、思春期とともに異性の観察が重きを占めるようになった。こうして成長するにつれてだんだんと視線は広がって行ったが、いつまでたっても練達しないのが自分についての観察すなわち内省や反省である。
 観察は知識への第一歩であり、女性を知るにも欠かせない。というか男にとって女の観察は、たとえ自然現象や社会についての観察を手放しても、これだけは最期まで持ち続けることになるらしく室生犀星『随筆女ひと』には「気力や性慾の廃退はともかく、眼というものがかがやく限り、それのとどいてゆくところの美しさは拒ぞけ兼ねるのである。女なぞもうどうでもよいというのは、うそである」「人間が最初に女を見出し、生涯そこの世界でじたばたをやりながらも、なお、最後に女の人を見直して美しいと思うところに、いのちというものがやはり女の中にあったことを、見出さずにいられない」とある。
 異性の観察で男の視線の向かう先は胸元派と脚線派に分類できるという話がある。わたしは後者ですね。もっとも昔の女性は脚をあらわにしなかった。スクリューボール・コメディの名作「或る夜の出来事」の、ヒッチハイクの場面で、クラーク・ゲーブルがいくら道路脇に立ち親指でジェスチャーを繰り返してもだめ、そこでクローデット・コルベールがわたしのやり方でとスカートを膝上すこしまで上げるとすぐに車が止まる。一九三0年代にあってスカートを膝上まで上げるのはたいへんなことだった。世界にミニスカート旋風が巻き起こったのはそれから三十年あまりのちのことで、こうして観察は女性のファッションとの道連れである。
 室生犀星によると脚線を目にできない時代には男の視線は女の手に向かっていた。
「女の手というものには、むかしはたいへんな魅惑があった」「手は女の二番目の顔のようなものであって、仮りに女の人がゆるして男に手をにぎらせるということがあれば、女の人に相当なかくごがいるものである。いまでいうキスをゆるすという程度にほぼ近いものに、手重く見てよかった」のだった。
 手があれば腕の観察もあっておかしくない。でもそんな人はいるだろうかとお思いになるかもしれないが寺田寅彦という近代日本の第一級の観察者がそのことに触れている。
 「食堂の女給の制服は腕を露出したのが多い。必然の結果として食物を食卓に並べるとき露出された腕がわれわれの全面にさし出される。日本で女の腕を研究するのにこれほど適当な機会はまたとないであろうと思われる」。(「自由画稿」)
 手から腕へ、男の視線は相手に隙あれば見逃がさずにはおかない。ストリップの時代、それもある時期からは日劇ミュージックホールは別にしてヘアーも性器もお金さえ出せばいくらでも観察できるようになった。友人に誘われてその種のショーも見てはいるけれど、そこのところの観察に興味関心を覚えなかった。視線の広がりには欠けたが悔いる気持もない。
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by yumenonokoriga | 2015-12-29 09:39 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

「プーサン」

 市川崑監督は一九一五年(大正四年)十一月二十日に生まれ、二00八年(平成二十年)二月十三日九十二歳で歿したからことしは生誕百年にあたる。池袋の新文芸坐では生誕百年祭として特集上映が行われており、さっそく初日の「愛人」と「プーサン」を観てきた。ともに東宝作品で一九五三年(昭和二十八年)に公開されている。
 ハリウッド映画の一ジャンルにスクリューボールコメディがある。スクリューボールは野球の変化球、つまりひねり球に喩えられる変人奇人、風変わりな男女が喧嘩をしながら恋愛劇を繰り広げる。クローデット・コルベールとクラーク・ゲーブルが共演した「或る夜の出来事」はその嚆矢にして代表作のひとつだ。
 「愛人」は恋のベクトルがあっち向いたり、こっち向いたりの大混戦、あらためて和製スクリューボールコメディの傑作と讃えたい。
 映画の越路吹雪は使われ方がいまひとつ物足りなかったが、市川監督は「愛人」「プーサン」でコメディエンヌとしてのコーちゃんの魅力を存分に引き出している。
 「プーサン」は横山泰三が昭和二十五年から昭和二十八年にかけて毎日新聞に連載された四コマ漫画を原作にしていて、当時の世相が風刺をこめて描かれている。
 なかでプーサンの伊藤雄之助とミス・ガンコの越路吹雪がストリップに行くシーンがある。詳しくは本コラム「映画のなかのミュージックホール」(2012/4/10)をご覧ください。二人の行った先が映画公開の前年昭和二十七年三月に開場した日劇ミュージックホール、踊るのは当時のトップスター、メリー松原。名物のデベソでスレンダータイプの彼女がダイナミックな踊りを披露する、いまとなってはたいへん貴重な映像だ。
 今回三度目の「プーサン」で気づいたがスクリーンのミュージックホールの舞台はセットのようだ。二人が劇場から出てきたところでミュージックホールの出入り口附近が撮影されていて、プーサンとミス・ガンコが観た公演のタイトルが「桃源の美女たち」だったと知れる。
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by yumenonokoriga | 2015-12-03 11:24 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

福田宗吉

 柳澤愼一『明治大正スクラッチノイズ』(ウェッジ文庫)を読んだ。
 この前、著者をスクリーンで拝見したのは三谷幸喜監督「ザ・マジックアワー」(2008年)だったが、今回は活字を通してお目にかかった次第だ。同書は二00九年の刊行(単行本は二0000年文芸社刊)だから申し訳なくも長年積ん読の状態にあった。
 明治、大正の社会、風俗、大衆芸能などについて編年体で書かれたこの本の一九一三年(大正二年)の記事に、浅草六区のオペラ館、帝国館、電気館、富士館、千代田館、大勝館など活動写真館の繁栄の模様が述べられている。
 そこではオペラやオペレッタの序曲、管弦楽曲のサワリ、外国航路の専属バンドが伝えてくれる世界各国の流行歌などが演奏され、洋楽の普及とファンの拡大に一役買った。
 演奏した楽士はといえば「前田環、宮田清蔵、黒柳守綱(徹子の父君)といったクラシック畑、昭和二十七年日劇ミュウジックホール開場時にも良きマトメ役を務めた福田宗吉、そして外洋航路の波多野福太郎ら、やがて日本の洋楽界をリードしてゆく名手達が、進取の気性に燃えて譜面をにらんで居た」とある。
 本欄として見逃せないのが「昭和二十七年日劇ミュウジックホール開場時にも良きマトメ役を務めた福田宗吉」だ。「マトメ役」というのはミュージックホールの演奏グループを率いたという意味だと思うが、丸尾長顕『回想小林一三』や岡田恵吉『女のシリ・シンフォニー』を見てもその名前が見当たらず、とりあえずは宿題とするほかない。
 なおネットで調べると福田宗吉は一九三三年年から三七年にかけて日活多摩川で録音や音楽監督の任にあったことが知れた。
 また柳澤愼一についても検索したところWikipediaに一九五七年池内淳子と結婚、翌年離婚したあと一九六0年五月に日劇ミュージックホールのヌードダンサー瞳はるよと再婚したが一九八九年には独身と報道されている、とあった。再婚はこの年の春の公演「夜に戯れて」に柳澤が特別出演したのがきっかけだった。
 公演リストによると瞳はるよは昭和三十四年の「恋もジェットの翼に乗って」と「笑っちゃいや」、翌年柳澤と結婚する直前の初春公演「乳房に虹がかかっている」でヌードのトップに名前が見えている。
 結婚のきっかけとなった「夜に戯れて」のトップは小浜奈々子、そのつぎが瞳はるよだった。
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by yumenonokoriga | 2015-11-20 10:30 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

パリで

 先月下旬にパリを旅した。かつての日劇ミュージックホールの舞台を思わせるムーランルージュやリドに行きたかったが残念ながら時間の関係で叶わなかった。
 ムーランルージュは先年訪れているので、今回はぜひリドへと思ったが、シャンゼリゼにある同劇場の前を通り過ぎただけで次回のおたのしみとした。
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 その代りといってはなんだが、セーヌ川のほとりの古本市でなつかしいパリのレビューを描いたポスター写真を買ってきた。

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by yumenonokoriga | 2015-11-02 11:20 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

YouTube「日劇ミュージック・ホール / Nichigeki Music Hall 1984」

 先日、本ブログの読者の方からYouTubeにミュージックホールのビデオがアップされていますよと教えていただき、さっそく視聴させていただきました。ハンドルネームRetro Asian さんが投稿されており、標題は「日劇ミュージック・ホール / Nichigeki Music Hall 1984」。
 記憶によると東宝はミュージックホールのビデオを十本前後発売していて、食指は動いたのですが薄給の身にはおいそれと手が出る値段ではなく、高嶺の花でした。
 今回のYouTubeはそのなかの一本「さらば!日劇ミュージックホール」が収録されています。日比谷のミュージックホールの閉場公演を基に製作されたもので、岬マコ、大山節子、明日香ミチなど掉尾を飾るダンサーたちが出演しています。また回顧コーナーでは映画からの引用と思われるジプシー・ローズの踊る姿も見られます。
 ついでながらこの最終公演についてはNHKが劇場へカメラを入れて撮っており、特番で一部が放映されていました。また、橋本与志夫、正邦乙彦の両氏が出演されていたのをおぼえています。
 Retro Asianさんへの感謝を込めて本欄でコマーシャルに及んだ次第です。
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by yumenonokoriga | 2015-10-05 10:42 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(2)

ダンサーの名前

 和歌と相撲とは相性がよくて力士の醜名や年寄の名前でしっかりと結びついている。落語でいえば「千早ぶる」の龍田川がいる。おなじく「佐野山」という噺には十両筆頭の佐野山と千秋楽で対戦した寛政の大横綱谷風がいる。「谷風にとくる氷のひまごとにうちいづる浪や春のはつ花」(古今集春上)をはじめ谷風はしばしば王朝和歌で用いられていた。
 田子の浦、阿武松、武蔵川、出羽の海、花籠、高砂といった年寄名も和歌と似合いで、ここのところの事情について丸谷才一の随筆「立ちて見に来し印南国原」には「和歌的なものと相撲的なものとが呪術性において一致してゐるのである。その呪術性が文学性に変つて、優雅な洗練をもたらしたのだ」とある。
 そして丸谷氏はこういう美風を近代日本において最も華やかに継承したのが宝塚で「天津風雲の通ひ路吹き閉ぢよをとめの姿しばしとどめむ」(僧正遍照)の天津乙女と、「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」(大弐三位)の有馬稲子を例として挙げている。
 こうして神仏への祈りや華やかさが和歌と相撲と宝塚をつなぐ。
 ならば戦後「額縁ショー」「エロレビュー」に発した裸舞の世界はどうだったか。ここには個性において相撲や宝塚に匹敵するきらびやかな芸名群があり、多くはカタカナが付いた。ミス池上、片岡マリ、伊吹マリ、メリー松原、ヒロセ元美、ジプシー・ローズ、ヘレン滝、邦ルイズ、グレース松原、ムーン冴子、パール浜田、マーガレット丘、エミ―中村、リリー月丘、R・テンプルといったふうに。
 カタカナの付かないのは奈良あけみ、春川ますみ、桜洋子、園はるみ、月城ゆりといったところか。
 「ストリップ・ティーズは生粋のアメリカ産のアメリカ的センスに溢れた見世物」(岡田恵吉)であり、くわえて展覧会の裸体画にも覆いを掛けていた日本人が公然と舞台の裸を見られるようになったのは敗戦と米軍進駐の賜物だったから、カタカナ名が多くなったのは当然だったし、あの時代のカタカナ名には祝祭の雰囲気をもたらす語感があった。
 ところが日劇ミュージックホールのばあい、小浜奈々子や小川久美が登場した昭和三十年代になるとカタカナ名はアンジェラ浅丘という大スターを別にするとあまり見かけなくなる。島淳子、花浦久美、加茂こずえ、多喜万利、高見緋紗子といった具合で、流行語にもなった「もはや戦後ではない」は昭和三十一年七月に公表された『経済白書』の結語だったから、奇しくもダンサーの名前の変化は戦後の経済の流れと軌を一にしていた。
 小浜奈々子や小川久美、島淳子、花浦久美は芸名であってもふつうの女性名のようで、ここのところにも時代の嗜好が作用していたのだろう。
 この傾向はその後の大山節子、野々村美樹、沢理恵、南ゆき、水原まゆみ、浅茅けいこといった名前にも表れている。
 松永てるほ、岬マコは芸名のようであり、そうでもないようでもある。
 朱雀さぎり、明日香ミチ(写真)、炎美可、舞悦子、梓かおりなどは姓に特色を持たせている。
 これらの名前の変遷にも日本の女性名がバラエティに富んだことが示されている。
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by yumenonokoriga | 2015-09-22 11:33 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(1)

「昭和の裸」

 先日リメイクされた「日本のいちばん長い日」を観た。ポツダム宣言受諾を決定した八月十四日昼の御前会議から十五日正午の玉音放送までの一日における戦争終結か継続かをめぐる白熱のドラマだ。
 陸軍の若手将校を中心とする本土決戦派は巻き返しの最後の試みとして近衛師団と東部方面軍を動かし天皇の吹き込んだ音盤を争奪したうえ、ラジオで徹底抗戦を呼びかけようとする。首謀人物の一人が畑中健二陸軍少佐でこの重要な役を松坂桃李が熱演している。
 ただ申しにくく、仕方のないことだけれど若い役者の軍人姿が発する昭和戦前の雰囲気は稀薄で、整った顔立ちが余計そう感じさせたのかもしれない。それとも一九六七年(昭和四十二年)製作の「日本のいちばん長い日」で畑中健二少佐に扮した黒沢年男の印象が強かったからか。昭和の黒沢年男の風貌に比較するとやはり松坂桃李は平成の顔だった。
 天皇の代替わりで容貌や骨相が変わるはずもないが、人々の嗜好から遺伝子の作用まで複雑な要因がからみあいながら歳月はこうしたところにも影響を及ぼしていて、そういえばMGMのミュージカル映画のハイライトシーンで構成したアンソロジー「ザッツ・エンタテインメント」におけるハリウッド初期のコーラスガールたちはいまの基準からするとだいぶん太目だった。
 一九二0年代から三十年代にかけてニューヨークのハーレム地区に実在した高級ナイトクラブ「コットンクラブ」を描いた同名の映画は一九八四年に作られているが、このときフランシス・フォード・コッポラ監督は当時の雰囲気を醸し出すために太目のコーラスガールを集めたと聞いたことがある。
 一九七四年生まれの映画監督西川美和が一九四八年生まれの谷ナオミに取材で会って(二000年頃のことらしい)そのときの元女優の肢体についてこんな感想を述べている。
 「全体にうっすらと丸みを帯びた、いかにも『昭和の裸』というタイプで、和服を着た時にジャストの体型というのだろうか、今の時代に裸で仕事をする各種の女優業の人たちとも肢体の類が明らかに違う」。(『映画にまつわるXについて』)
 日劇ミュージックホールには谷ナオミはじめ日活ロマンポルノの女優さんが何人か出演していたが、演技と踊りの違いだろう総じてヌードダンサーのほうがやわらかな筋肉が付いている印象がある。ミュージックホールが生き延びていたら「平成の裸」はどんなふうになっていたのだろう。
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by yumenonokoriga | 2015-09-02 09:45 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)

バーレスク

 フランスにトリスタン・ベルナール(1866-1947)という粋人タイプの劇作家、小説家がいた。あるパーティで上流社会の令嬢がベルナールのあごひげに見とれているうち、たまりかねて、先生ちょっとおひげにさわらせていただけませんかと訊ねたところ、彼はにこやかに応えた。どうぞお気のすむまでおさわりください、けれどお嬢様、あとであなたのおひげにもちょっとさわらせてくださいよ、と。はじめ令嬢は何のことやらわからずキョトンとしていたが、まもなく気がついたらしく真っ赤になって逃げて行った。
 いかにも伝統的な喜劇やボードビルを継承、発展させ、軽妙な作風で時代の風俗、倫理を風刺したとされる人にふさわしいエピソードだ。
 日劇ミュージックホールの演出家だった岡田恵吉は『女のシリ・シンフォニー』でバーレスクについて「イヤ味に落ちず、程良きエロティズムと軽妙さを生命とし、軽口と肉体的表情によつてハッとする処迄見せるが決して汗のあとは見せない。だから見た後でイヤなものを見た様なオリが残らず、まことにさつぱりして気持がよろしい。表へ出ても思ひ出すと、クスッとやりたくなるが、いつの間にか忘れて了ひ、又のぞき度くなると云ふ様な代物が、バァレスクと云ふ不思議な宮殿なのです」と述べている。
 バーレスクについて心憎いほど結構の整ったこの文章はまた上のトリスタン・ベルナールの逸話に見られるエスプリとユーモアを分析し、解明してくれている。
 無粋な話をすれば、ベルナールの逸話に微笑むいっぽうで令嬢の「おひげ」を追っかけて雲雨の交わりに及んでみたいと願うのもまた男心で、バーレスクにはそうした欲望が渦巻く。
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by yumenonokoriga | 2015-08-20 11:49 | 日劇ミュージックホールの文学誌 | Comments(0)